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2006年 08月 16日
夜に人が体験することはどんなことなのだろうと考えることがある。
夜の暗がりに潜む不気味なものの気配だろうか。人目につかないところで開放される欲望だろうか。静かな空気に潜む孤独なのだろうか。あるいは夜は昼と同じに体験されるのだろうか。 孤独が好きだというと驚かれることがある。人からは理解されないこともある。確かに孤独は苦痛で、あまり近寄りたくない感情ではあるのだろうとは思う。けれども孤独は静けさと隣り合わせであり、おそらく親密さを切望することともよく似ている。そこには一人の世界があり、同時に思慕の念がある。 どのような種類の感情であれ、それが心に染み渡る時、人は一人だ。誰かと情緒を共有することは、心へと浸透するべき情緒を自分自身から引き離してしまうことでもある。人と共有できることの喜びとありがたみは、それを噛みしめる瞬間にはやはり自分一人の体験だろうと思う。 夜が世界から色と光を取り除くこと、生活から社会的関わりを取り除くこと、それは一人であることを可能にする。そこに救いがあるかどうかは分からない。けれども少なくとも昼の光の中で自分自身から引き離された感情が心へと染み込む時間が夜なのだ。 そうした中で感じる孤独は自分自身であることと、誰かを思うことを同時に可能にする。昼においてよりもずっと真剣にそう感じさせる。感情を自身から引き離す刺激が取り除かれているからだ。夜に感じる孤独は成り立ちがたい二つの状態が同時に存在するものであり、夜はそうした感情が心の中に立ち戻ることを許す時間なのだ。 想うことがなければ、孤独は感じない。一人でいられなければ孤独ですらない。孤独を否定したければ、誰をも想わないか、誰かとともに居続ければいい。しかし、そこには情緒を情緒として体験する余地はなく、もっといえば心が心である余地がない。夜を否定することはそれと同じことの、もっと大規模な形態を示している。 夜に体験されることは心に染み入る情緒と、あるいはその否定なのだろう。夜に灯る明かりが夜の静けさを知らせると同時に、まぶしすぎる明かりが夜を打ち消していく。眠らない街は夜の否定を意味し、それは夜への恐れと、より的確には心への恐れを意味している。夜に目を凝らし、耳を澄ます時に伝わるものは、心の奥底で生まれた響きであり、夜に生み出される喧騒はそうした響きをかき消すための狂おしく、そして浅はかな努力なのだ。
by nocte
| 2006-08-16 02:00
| 思索
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